Meeting with the Prince

5月12日にIMEX国際代表一行は、ウブド王家6代目当主チョコルダ・グデ・プトラ・スカワティ(Tjokorda Gde Agung Sukawati)氏に謁見し、芸術の村ウブドの発展に王家の果たしてきた役割について一時間以上も貴重なお話を伺いました。王族に謁見するなんて人生で初めての経験!

1920年代、彼の父親でウブド王家最後の王様だったチョコルド・グデ・アグン・スカワティ氏が、バリに魅せられたドイツ人画家ヴァルター・シュピースをウブド村に招聘した。そして村の芸術家たちに西欧絵画の手法や観念、遠近法や絵の具の利用などを教え、それまでのヒンドゥー教テーマだけでなく、村の日常の生活を題材に描くことを勧めた。彼はガムランやバリ舞踊にも深く関わり、古い宗教劇を観光客向けの商業用パフォーマンスに作り変え、観光用のケチャを生み出す手助けをした。
当時はデンパサールにしか外国人向けのホテルがなかったため、アグン・スカワティ氏は所有していたチャンプアン・パレスを改装し、1928年にウブド初の高級ホテル「ホテル・チャンプアン&スパ」を開いた。これが現在まで続くウブドの観光開発の最初の一歩となった。ちなみに2022年のIMEXでは、僕たち国際代表団はこのホテルに泊まり、ヴァルター・シュピースが滞在していた部屋、泳いだプールなどを楽しんだ。

続いてアグン・スカワティ氏は1931年パリで開催されたパリ植民地博覧会に、ウブドの建物を分解して船で運ばせ、博覧会会場に小さなウブド村を再現し、ウブドの住民数十人を期間中の半年間、現地に住まわせ、絵画を展示し、ガムランの演奏会など開いた。これがヨーロッパにバリの芸術の村ウブドを知らしめる最初の機会となった。
1932年にはアグン・スカワティ氏、ヴァルター・シュピース、オランダ人画家ルドルフ・ボネほか、125人の芸術家や有志が中心となりウブド初の国際的な芸術サークル「ピタマハ」が結成され、バリの画家、芸術家たちを支援する活動を行った。

第二次世界大戦後の1956年、長年にわたり絵画を収集していたアグン・スカワティ氏は、バリ絵画が海外に散見してしまうことを危惧し、ルドルフ・ボネたちとともに資金を調達し、ウブド王宮近くにプリ・ルキサン美術館を開園。プリ・ルキサン美術館は今回のIMEXの会場としても用いられた。

そして現当主チョコルダ・グデ・プトラ・スカワティ氏。1955年生まれの彼は第二次世界大戦の荒廃によって衰微しかけたガムランやバリ舞踊の伝統を盛り返し、若い演奏家や踊り手を養成し、バリ芸能の中興の祖となった。1980年頃、ウブド王宮の一角にガムランやバリ舞踊専用の会場を造り、毎晩定例演奏会をスタートさせた。現在ウブドには15箇所以上のガムランやバリ舞踊専用の会場が存在し、外国人観光客を集めている。
バリの音楽や芸術だけでなく、バリ料理好きの僕が今回、プトラ・スカワティ氏から聞いて驚いたのは、現在バリ島の至る所にお店が並ぶ名物料理の豚の丸焼き「バビ・グリン」の流行のきっかけを作ったのも実は彼だったということ。1990年、彼はバビ・グリンを商う女性イブ・オカ(オカおばさん)から王宮の演奏場の一角に出店させてくれと頼まれ、土地を提供した。それが現在3店舗展開中のバビ・グリンの老舗「イブ・オカ」となった!
そして、2024年現在、新たにウブドをユネスコの創造都市ネットワークの食文化部門に登録しようと画策してるのは彼の息子のチョコルダ・グデ・アグン・イチロー・スカワティ氏。次回はなんとか息子さんとお会いしたいです!

プトラ・スカワティ氏は現在のウブドのことを「深刻な渋滞付きの国際的な小村」と呼んでいました。父親のアグン・スカワティ氏は晩年「私はウブドにとって沢山の良いことをしたけれど、沢山破壊もした」と言っていたそうです。そしてプトラ・スカワティ氏自身もオーバーツーリズムの現状を鑑みて、「時に全てから逃げて隠れてしまいたくなる」と言ってました。

僕は1990年からバリ島に通ってきたけれど、これまでの僕の旅は全てウブド王家の掌の上だったんだなあと改めて思い至りました。忘れがたい経験となりました!


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